残念社とは1866(慶応2)年、長州戦争の時、四十八坂一帯は東西の攻防の決戦場となっていた。
その頃、和睦に走っていた幕府軍使者、丹後宮津藩士依田伴蔵を長州軍が戦闘員と見誤って狙撃してしまった、軍使は「残念」と叫んで倒れた。
長州軍は遺憾の意を表し、その死を悼み祠を建て奉ったのが残念社の由来といわれている。
地元奉賛会のみなさんが参加され 大頭神社 松原宮司により祀りが執り行なわれました。 |
残念社に続き依田神社でもお祀りが行われました。 |
廿日市市八坂にある依田神社への鳥居 鳥居の奥にある石は吉田松陰が江戸に護送される際休んだ とのいわれのある旧跡です。 ここらには旧山陽道の石畳など旧跡が多く残っています。 |
懇親会で由来等について語る松原宮司88歳 |
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